あぶらっこいものが食べたくなるとき

 コッテリあぶらっこいものが食べたいときがある。ポテトチップスや醤油豚骨のラーメンを摂取することで解決するのだが健康に良くない。肥満体と高血圧一族である私の体を痛めつけることになる。

 ただ「食べたい」と感じた瞬間に、頭のなかが「いつ食べるのか」でしめられてしまう。仕事しているときも「食べたい」、他人と話し合いしているときも「食べたい」。ひとりぼっちで作業していると歯止めが効かないから「食べたい食べたい、これほど食べたいと思うのならさっさと食べたほうがいいのでは。むしろ食べないと……食べるべきだ。よし食べよう。食べなければならない」という欲求が私の心のなかで育ち、強迫観念にまで成長する。決定するまでの時間は、約数時間。その間、ずっと悶々としているのだ。時間の浪費。カロリーも浪費すればいいのに。

 決めてしまったら、真夜中だろうがお構いなしである。食う時は食う。深夜まで開いているラーメン屋に飛び込み、油多め味濃いめ家系ラーメンをライス込でかっ込むのだ。

 罪深い。なんでわざわざ太りやすい時間帯に食べてしまったのだと、自分を責め苛む。作業を再開するものの、罪の重さと胃の圧迫感に耐えられず、寝ることになる。しかし問題はこれだけではない。

 チョイスした「あぶらっこいもの」がジャストの「食べたい」じゃないときがある。例えば脂っこいものが食べたいと感じたので、コイケヤのポテトチップスのり塩味を食べたとする。しかし、どうも違うなあ物足りないな、となったとき、罪悪感と一緒に後悔の念が襲いかかる。しまった、間違ったものを食べてしまった。お腹はいっぱい、太るし、塩分もたっぷりだ。明日の寝起きは辛いに違いない。

 ここまでくると「あのときポテトチップスじゃなくてラーメンを食べればよかった、ああ食べねばならない――でもお腹がいっぱいだ、なんてことだ、ああもう辛くてしょうがない、胃が痛い。こんな悪いことが起こるなんて、もうダメだ」

 痛いのは不規則な時間に食べたせいで起こった胃もたれのせいなのだが、我が身に降りかかる原罪のように、自分を責め続けることになる。しかたなくその日しなければいけなかった作業はすべて中断することになり、罪の重さに押し潰されたまま寝ることになる。

 どちらにせよ次の日の朝は、作業が溜まったまま、カロリーも溜まったままである。